2012-02-05

利用促進グッズ

0009

 販売促進のために購入者特典として何かを配るということはよくある。
 販売ではないが、図書館でももれに倣って利用促進を図ってはどうかと思う。しかし、あくまで貸出しを促進するというよりも、図書館への来館を促したり、事業への参加を促すための手段としてである。事業というとクリスマスおはなし会として、特別なおはなし会を行うときに、サンタに扮した館長が図書館員手づくりのプレゼントを渡すという話はよく聞く。この延長線上で、テーマ展示の資料を借りると、ポップアップカード型ブックリストがもらえるというような企画を立てるようなことを考えていた。ここでの目的は、ポップアップカードがもらえるという特典を付けることにより貸出し利用を促進するように見えるが、実はそうではない。勿論、借りてくれるに越したことはないが、ポップアップカードには、「ポップアップカードを作ろう」という事業の案内と参加券を付け、そちらの事業への参加を促進するのである。

 つまり、この考え方で重要なのは、図書館が仕掛ける一つのアクションについての利用促進に留まらず、複数のアクションをつなげ利用を促進することである。
 図書館では上映会を行っているが、その流れとしては、上映告知を出して入場者を募り、当日時間になったら上映会を始めるという、場末の映画館とどこが違うのかという内容である。工夫があるとしても、上映作品に関する本を会場に持ってくるか、館内のどこかに展示してあるぐらいで、図書館ならではの魅力など欠片もない。図書館でこのような上映会を行うのであれば、司書による映画の解説トークぐらいはあっていいのではないかと思う。
 ただ、利用が少ないからと言って上映会を行わないという傾向もある。利用促進という意味ではやらないよりやった方がいいのは当然であるが、このような図書館だからこそ味わえるという差別化が必要であると同時に、映画を目当てに来た人をどのように図書館の他のサービスにつなげるかという事の方がより重要なこととなるであろう。図書館の上映会の目的は何かと尋ねると、「上映会への入場を増やすこと」という答えを聞くことがある。しかし、事業の目的はそうではない。事業に参加することによって生まれるものが必要なのである。それは、図書館の必要性でもあり、しいては、働く人に対する報酬の必要性の認識でもある。さらに言えば、税金を払うことの意義でもあるだろう。

 このような意識を醸成するためには、「参加して面白かった」「借りられて良かった」「開いてて良かった」というコンビニエンス的な充実感を図書館側が求めるようなサービスの組み立て方ではいけない。様々なサービスの連鎖を作り上げ、「この人(たち)がいて良かった」という意識が生まれるようなサービスを組み立てなければならない。

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2012-02-04

本の相談

009

 最近、公共図書館でレファレンス窓口ではなくて「本の相談」という窓口名を見るようになった。
仕事としては、所蔵資料の簡単な案内から、調べもののために必要な資料の案内が中心で、従来からあるレファレンスと本質的に変わりはない。しかし、図書館に来る人の傾向が日常生活に溶け込むにつれ、人々の図書館に対するイメージからレファレンスという言葉が遠のいていくのは公共図書館の窓口にいる者なら誰もが感じ取っているのだろう。そこで、これまでのレファレンスサービスをよりわかりやすく身近なものとするために、「本の案内」などの言葉を使っている。
 しかし、相変わらずお客様のレファレンスへの認識は低いままである。身近に感じる施設であるからこそ、面倒なサービスに期待するほどではなく、単純に本屋感覚で本を借りて返すというルーチンがあればいいという感覚なのかもしれない。他にも理由は様々であろうが、ひとつ言えることは公共図書館に対するイメージから「レファレンス」という人的仲介は消えつつあるということである。私たちは、こうした動きに危機感を覚え、レファレンスを公共図書館の基幹業務の一つとして、お客様の利用へと結び付けようとしている。
 貸出しの先行きが不透明になりつつある現在、公共図書館の存在価値、司書の必要性を裏付けるためには、この方向性が間違っているとは言わない。当然考えるべき方向性だろう。しかし、既に必要性を感じなくなりつつあるサービスをそのままの形で、無理にお客様の意識を向けようとして上手くいくかというと疑問である。

 そこで、レファレンス或いは本の案内を本質的に変えてみてはどうかと考えてみる。例えば、これまでの「本の案内」では、資料を提供するということがサービスの本質であるが、これに加えて、本の修理、自家製本、装丁などの相談を受けることや翻訳支援などの業務を加えた「本の相談」を受けるスタイルが考えられる。つまり「本のドクター」とでも言うのだろうか。本について案内をすることは、単純に昔読んだ本をもう一度読みたいというようなことに応えることだけではなく、本の構造、本の歴史などを踏まえ、必要な人に必要な本を最適な形で提供するためのコーディネートをすることではないのか。

 現在、空いた時間を使って本の修理を行っているが、一冊一冊の状態を見て、一番適した方法で修理をしなければ、すぐに壊れてしまうこともある。また、長期保存が必要な本は、技法だけでなく紙一枚から拘らなければいけない場合もある。
 こうして、本の修理をしていると、図書館の本をそこまで拘って修理する意味があるのかという疑問を投げ掛けられることがある。要求のある本を貸出しするルーチンだけを見ると、世間的に消費期限の切れた本を修理してまで使う意味は無いというのも道理である。しかし一方で、本の盗難や切り取りや汚れにより使えなくなる本が増えているのは、このような使い方により本が消費財化した顕れであるともいえる。
 なので、本の修理を通じて思うことはただ一つ。この本を手にする人が大切に使ってほしいという気持ちだけである。本の修理の目的とは、私たちが本を大切に扱う姿勢を示すことによって、本を大切に扱う気持ちを醸成することである。そして、結果的に盗難や汚破損を抑制しようとするのである。

 そのためには、単純に修理をして書架に本を戻せばいい訳ではない。本を大切にする気持ち、本に載っている情報の必要性、図書館で借りる本と自分で買う本との使い分け、そして本の選び方まで、本の購入の斡旋を含めて、本と人とをコーディネートする窓口としてレファレンスの本質を変えていかなければならない。

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2012-02-03

これからの資料収集

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 資料費がだんだん減っている現在、資料費に依存した図書館サービスは危険だという持論については、このブログ上の文章からも読み取れると思う。この状況に対応するために自館の選定リストの公開や、収集予定資料の寄贈依頼の方法など変えていかなければいけないと考えているが、寄贈資料を図書館の意図によりコントロールすることはそう簡単にできるものではない。
 寄贈を受け入れて、受入希望がある図書館の連絡調整をする仕組みがあれば良いのかもしれないが、寄贈される資料がどのようなものかという現状を見れば、寄贈資料をそのまま利用するより、売却、現金化のシステムを考えた方がより現実的だろう。

 さらに購入の方法についても再考する必要があるのかもしれない。
 例えば、誰でも閲覧できる書誌データベース上に一つの図書館が収集したいが、購入もできず寄贈でも収集できない資料の書誌に収集希望のフラグを立てる。これにより、このフラグを見た人が寄贈をするような仕組みである。こうすると、寄贈だけでなく、著者や出版者の目にも図書館の要求がわかることになり、収集の可能性が高まることにつながる。簡単に実現できることではないが、必要な資料を確実に収集するためには、新刊購入を基本とした現在の収集から蔵書コレクションを基本とした収集へ改めるべきであろう。
 本当に必要な資料は新刊にあるとは限らない。例えば資料のテーマ展示をする過程で、書庫に眠っていた意外な資料に気付くこともある。所蔵していない資料であっても、その価値を認めなかったから所蔵していないのではなく、価値を認めつつも値段の問題などがあって泣く泣く購入しなかった本もあるだろう。必要な資料がきちんと所蔵されていること…これが、レファレンスをはじめとする図書館の全てのサービスの根源にある。

 貸出しされないから購入しない。
 予算が少ないのであれば、要求論に基づく資料収集をすることで、簡単に利用実績を上げられるのははっきりしている。しかし、長い目で見た時にこの方針で収集を続けることは、資料の消費財化を進めることにもなるだろう。
だが、レファレンスのために必要だからと、誰も使わないのに高価な資料を購入することが良いとも言えない。大切なのは地域にとって何を遺す必要があるかということなのである。
 そして、地域の要求を知ること。今、図書館で要求のあるベストセラーなどの本については、個人の要求であるが、地域の要求とは言い難い。地域の要求とは、地域生活に必要な資料や地域の歴史などを振り返った時に必要な資料のことである。この要求に基づいて資料を収集することが必要なのである。

 私たちは、どうしても目の前にある要求に応えようとしがちになる。目の前の要求も大切なのは確かだが、現状は、そのよう要求すら充分に応えられていないのである。その理由は、複本購入により、本来買わなければいけない資料が買えなかったことかもしれない。或いは、購入した資料が有効活用できないことかもしれない。また、出版された時には価値を見出されなかった資料で、後に価値が出た資料があり、その価値を評価するだけの選書眼がなかったことかもしれない。

 例えば、図書館が意図しなかった要求が突然発生した時、「想定外」と言い、慌てて資料を収集するような形では話にならない。

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2012-02-02

笑顔のために

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 「○○週間」のようなキャンペーン期間はいろいろあるが、公共図書館でもこのようなキャンペーン期間を設定してはどうだろうか。実際には既にやっている図書館もある。「図書館まつり」のようなイベントがこれにあたるといえるだろう。
 例えば、スーパーでは「シルバーデー」とか「肉の特売日」のように特定曜日に対象を絞ってサービスを広げる動きがある。図書館では、特定の人に対する優遇措置という訳にはいかないが、普段図書館をあまり利用しない層をターゲットにキャンペーンを展開してもいいだろう。

 公共図書館では、過去の悪しきイメージを払拭し、図書館員の理想とするイメージの定着に努めているという印象を受けるが、時代に合わせて、過去のイメージを打ち消していくとそのうちに「図書館とはこういう施設」だという決定的なイメージ形成ができるものが何も無くなってしまうのかもしれない。図書館を自習することだけに使ってきた人に「自習する場所じゃない」と否定するばかりではなく、時には、「受験生応援ウイーク」のような形で、図書館側の意図する形で受け入れることを考えてもいいのではないか。

 私たちが求めるべきは「すべての人の笑顔」だ。しかし、その笑顔の陰で泣いている人がいることも忘れてはならない。

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2012-02-01

展示という考え方

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 図書館での展示というと、テーマにより資料を集め、目立つように紹介するイメージが強い。しかし、目立つ反面、貸出しされて資料が置いてある場所がスカスカの殺風景な様子になってしまうことがある。折角目立つようにしてもこれでは逆効果だろう。

 そんな展示であるが、最近は資料を手に取ってもらいやすくするために、本を表紙か見えるように置くだけでなく、パスファインダーや関連機関のパンフレットなどを同時に紹介するなど様々な手法が見られるようになった。ところが、図書館の棚は展示架という専用の書架もあるが、構造そのものはどの分野の資料であっても排架することが基本であり、展示する資料のイメージに合わせようと思っても資料が引き立つようにはなっていない。
 例えばデパートのディスプレイが、商品にマッチしていて棚そのものがあまり出しゃばらないのは、商品を置く棚(什器)がリース品であり、商品によって入れ替えができるという理由がある。図書館でも全部の棚は無理であっても展示に使う部分ぐらいは入れ替えができるようになれば、と思うのである。
 そこで、展示する時は棚そのもののイメージを変えられるように、様々な布を棚に敷いてみたり、資料のイメージに合わせた小道具を用意するのだが、結構このような資料を引き立てるための装飾には時間とお金が掛かる。すると、一つのテーマでの展示の期間が異様に長くなったり、展示そのものを敬遠することにつながってしまうのである。

 本当は、しっかりとした棚構成があり、本来の置き場でお客様自身が自分に必要な資料を見つけやすいのであれば、特別なコーナーを設けたりしなくても良いだろう。ただ、このような棚を作るために必要なことは、綺麗に前面に揃えることでもしおり紐が見えないようにすることでもない。それは気持ち良く利用できる環境を整えることであり、お客様の要求を感じ取り語り掛けることとは違う。必要なのは、どのような方針で棚が構築されているのかという図書館の持つコンセプトが見える棚なのである。
 しかし、排架だけでこのような棚を作るこつは難しいだろう。なので、展示をしないで資料を手に取ってもらえるようにするには、図書館員がフロアにいて、いつでも資料の案内ができることが必須である。そうすると、人の配置の問題が浮上する。効果的な展示のためにはお金が掛かるが、それ以上に人を配置するとお金が掛かるだろう。

 そこで、特設展示以外に効果的な資料の紹介ができないかというと、要求がある分野や要求が無くても資料をきちんと揃える必要のある分野を恒常的にわかりやすくする「常設展示」という考え方が出てくる。常設展示というと大層なものに聞こえるが、図書館員の大好きなビジネス支援のコーナーは常設展示の類型といえるだろう。また、参考図書や地域資料のコーナーも同様である。要は、これを別置と捉えず、通常の排架の延長線上で考えることが基本なのである。

 展示というのは、話題などに合わせて必要とされる資料をお客様に見えるようにするための手法の一つである。つまり通常の棚に資料を置く時でも、要求されそうな本を書庫から開架に出すようなお客様を意識した「資料の入れ替え」があれば特別なコーナーを作らなくてもそれ自体が「展示」なのである。いや…もっと極端な言い方をしよう。開架に資料を置くことすべてが図書館における「展示」である。

 そして、このような意識がある図書館の棚こそが「排架」と呼べる棚である。

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2012-01-31

OPACという言葉

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 最近、病院の支払いが簡単になったと感じる。それでも、高齢の方が多いので、支払いに手間取ったり、会計戔を出したらすぐに支払いができると勘違いして機械にカードを入れて、支払いができないことに怒りを顕にしている人を見掛ける。以前の支払いまでの流れを思い出せば、機械化されたからと言って会計までのレスポンスが無くなる訳もないのは当然だが、機械化されると同時にこのようなトラブルが発生するのは機械に慣れていないということが原因になっていることもあるが、それ以上に、設置側の説明不足が問題であると感じる。
 この問題は別として、病院での支払機には現金自動支払機と書かれていた。他にも再診受付機など、機械の使用目的がハッキリしている。

 転じて、図書館に目を向けるとどうだろう。
 OPACと書かれたパソコンが置いてある。また、自動貸出機には、画面上のガイド画面に「借りる本を置いてください」との表示はあるが、自動貸出機との表示がない或いはわかりにくい場合がある。すると時々、「OPACって何だ。」とか、「パソコンなのに何でインターネットにつながらないのか。」という質問を受けることになる。終いには、インターネットにもつながらないようなものを置いて無駄だと言い放たれることもある。

 ここでも説明不足であることが感じられる。しかし、それ以前の問題として、お客様にわかりやすい名前になっているのかを考える必要があるだろう。
 レンタルビデオ店では、借りたいものを検索する機械に、「リクエスト機」という名称がついていた。自分で検索できるところは図書館のOPACと全く同じであるが、検索の目的が見たい作品が見つからない時に予約やリクエストをするということが明確になっている。
 図書館のOPACは、本来「目録」としての機能を機械化したものであるが、利用状況から見ると、目録を越えレファレンスの機能までも委ねているような気がしてならない。最近は、OPACがあるので冊子体目録を置いてある図書館はあまり見られなくなった。しかし、冊子体の方が使いやすいという人や、大きな活字や点字での目録、主題を絞った目録など、OPACを補完する意味での要求に応える必要性があるのも事実だろう。
 少なくとも、OPACとは何のために必要なのかということ、そして、置いてあるから勝手にどうぞではなく、使い方を含めて、図書館員により案内することが前提であること。そして、「排架」が基本であり、あるべき資料に確実に案内するための手段であることを忘れないようにしたい。

 このことを忘れた時、図書館は単なる本がある空間になってしまう。

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2012-01-30

寄贈資料考

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 図書館に資料を寄贈したいという申し出がある。
 寄贈資料の多くは、その人が読み終えた本であり、図書館の側からみると既に賞味期限が切れた本で、さらに既に図書館で所蔵しているものである。このような本は、所蔵している本がくたびれている時の差し替え用として活用する方法が考えられるが、どちらかと言うと「枯葉も山の賑わい」という感じである。
 図書館では、この寄贈資料の扱いに悩まされる。想い入れの強い本を寄贈しようとする人は開架に置くことを条件に迫る場合がある。また、寄贈数が多い場合には、寄付の申し入れ手続きで必要があるとして、寄贈金額を出さなければいけない場合もある。
 しかし、元の金額がいくらだったのか、或いは現在の評価額がいくらであったとしても、図書館が資料収集方針に基づき資料を評価し、収集の対象として考えていない資料であれば、寄贈の金額はゼロ円である。寧ろ、寄贈を受け入れるために必要な費用を差し引くとマイナス評価の寄贈として金額を出すのが本当だろう。

 以前、図書館での収集予定の本のリストを公開し寄贈を求めるという提案をした。
 図書館の収集では、「選書=購入」という傾向が強い。わかりやすく言うと、購入したい本を選書しているのが現在の公共図書館の収集となっているように思う。しかし、選書と購入は別問題である。選書した本の中には購入により入手できないものもある。そのような本は図書館の側から寄贈依頼をするのが一般的に行われてきた。なので、流通に乗っている購入できる本についても必ずしも購入で入手しなければいけないとは限らない。寄贈者を募ることもありだし、或いは「寄託」という形で受け入れることもある。現在の「選書=購入」という傾向になっている理由には、予算が前提となって予算の範囲内で資料を収集するのが基本であるからだろう。

 このように考えると、寄贈受入の前提には、図書館が必要だとする「要求」が無ければならない。図書館の要求を基本として寄贈の受入基準を明確にしていないから、必要のない資料の受入を巡るトラブルに発展するのだろう。別な見方をすれば、これまでは予約が多く図書館が欲しい資料の寄贈があるとタダで入手できてラッキーぐらいの感覚であったが、やはり、図書館の必要の度合いによって対価を払うことも必要だろう。そのためには、図書館員が、図書館で必要とする資料が何かを蔵書コレクションの全容から把握すること、そして目利きとして資料を評価できることも必要とされるだろう。資料収集の予算が先行き不透明な現在、寄贈の考え方も改めるべきであろう。

 そして、私たちは図書館員の要求を基としない寄贈資料がどれだけ厄介なものかを知っている筈である。ところが、自分が寄贈する立場になろうとした時、自分が迷惑だと思う気持ちを忘れているように見える。要求を知っていることこそ図書館の価値なのではないか。

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2012-01-29

確実なサービスのために

0001

 よく予約連絡票のテレコ(入れ違え)があるという話を聞く。
 何故テレコが起きてしまうのだろうか?当事者にしてみりば、よく確認している筈なのに、と言う。しかし、実際にテレコをしてしまった人の仕事を観察すると、なるほどと納得する。
 資料の返却をしていて予約資料があるとプリンタから予約連絡票がプリントされる。本当は1枚出力される度に予約連絡票を挟み込んでしまえば確実だと思うが、その場で挟み込まず、予約本を普通の返却とは別に積み上げている。そして、返却処理が一段落したところで予約連絡票を手に取り、出力された順番どおりに挟み込んでいる。
 一見効率的に見えるのだが、挟み込む時点での連絡票と書名との照合は行っていないのである。つまり、積み上げる順番が狂えば、必然的にテレコが起きてしまうことになる。
 これは、いわゆる「ミス」が起きる一つの原因であるが、ここでわかることは、確認が疎かにされているところが大きいということである。ミスを回避するために、違う人が確認するとか、複数の人で確認するとか、様々な形を取り入れているのだが、それでも、予約カードを挟んだままの本が書架に出ていてびっくりすることがあるのはどうしてなのだろうか?

 例えば、給料支払いの現場では賃金の計算間違いは決してあってはならない。その部署では、時間→賃金に変換して台帳を作成するところでは特に慎重に計算をしなければならない。ただ、時間を掛けてもいい訳ではなく、アルバイトの給料の場合、即日払いもあったので、当日の朝、出勤簿を回収して夕方の勤務終了時までに支払いの準備をしなければならない。その間はまさに戦場である。
 ここで、ミスをしないようにするためにどうしているかというと、必ず2人1組で読み合わせをしているのである。このような正確を求められる現場と図書館の仕事を比べると一目瞭然である。図書館では、読み合わせをして確認をしている光景には殆どお目に掛かったことがない。それは、カウンターなどで読み合わせをしていたらうるさいからという配慮もあるだろう。しかし、それ以上にそこまでして確実を求める必要性がないという意識が根強いのではないかと感じている。

 図書館のサービスに限らないが、読み合わせなどのひと手間を掛けられるかどうか、それが大切なのである。そして、ミスを起こさないように気を付けるのではなく、お客様の満足度を高めるために気を付けるという意識の違いが必要なのである。ミスを起こさないという意識がある限り、決してミスは無くならない。

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2012-01-28

休館日を減らすだけがサービスなのか

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 以前から「多くの人が休んでいる日こそ図書館のようなサービス施設は開いているべきだ。」という要望は強いと感じます。また、多くの人のライフスタイルに合わせ、夜間の開館に配慮したり、24時間開館の図書館などが見られるようになってきました。図書館利用可能時間はこのような要望に呼応して拡大し便利になったと喜ばれる声が多く聞かれるようになったのですが、一方でサービスの中身の提供の部分で本当に充分なものが提供できているかという点で不安を感じているのも事実です。
 例えば、年末年始やお盆休みなど、長期の休みの時、図書館は「開いてて良かった」という状態なのかもしれませんが、出版社、取次などは休みのため本の供給と本に関する情報の供給はかなり制限を受けます。また、レファレンスの対応にしても、協力を求めるべき他の公共図書館や類縁期間などが休館していては充分な回答ができないことにつながります。
 さらに、情報提供という観点からはどうでしょう。
 最近では、新聞社はホームページでリアルタイムの記事配信はしているとはいえ、年末年始の新聞は夕刊が休みだったり、情報量も大幅に減少しています。このような状況を補う意味で、図書館では情報のハブとして、できるだけ多くの情報にアプローチできるような体制を取る必要があるのかと思います。

 このような意味をとりまとめると、図書館利用の利便性とは単に開館していることよりも必要な情報を確実に提供できるような体制を取ることの方が重要ではないかと考えられるのです。ところが図書館での対応はというと相変わらず空間が利用できることに重点が置かれ、そこで提供される情報の内容について論じることは少ないのが現状でしょう。
 人が情報を求める時はどういう時なのか?当たり前ですが、情報要求は年末年始であろうと深夜であろうと必要に迫られれば待ってはくれません。もし、図書館が身近な情報提供機関として機能することを期待するのなら、空間としての利便性を追求すると同時に情報提供の仕組みをつくらなければならないのです。

 開館していても対応する職員が少なく、本の供給もない。情報を集め整理することも充分にできないという状況で開館するのと、開館日を削ってもいざという時に確実に情報が提供できるように準備をしているのを比べた時、長い目で見たらどちらが必要とされる図書館になるのだろう。そう思うと、幹線道路に面したところに昔からある自動販売機が置かれた「24時間オートサービス」と図書館の姿が重なったのです。

 サービスとは、利用する人の気持ちを察することができる環境があって初めて満足する下地ができるのだろう、と。

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2012-01-27

電子書籍と公共図書館

050

ビデオソフトが普及し始めた頃、公共図書館でビデオソフトと共にビデオデッキを貸出したという話があった。
その後再生機器の低価格化、家庭への普及により、公共図書館で再生機器を貸し出す話は聞かなくなったが、この取り組みが公共図書館の映像資料の導入の基礎となったことは紛れもない事実である。
映像ソフトの普及については、レンタルの果たした役割が大きく、公共図書館での提供は予算との兼ね合いで充実できないこと、耐久性に欠けること(特に使い方が有料のサービスと比較して乱暴で、1カ月も持たずに使えなくなる例もある)、貸出し許諾が得られているソフトの魅力に乏しいことなどにより、どちらかというと「人寄せパンダ」のような位置付けであり、図書と同列で扱う資料とは言い難い。
一方で、映像ソフトの提供は、パッケージに固定した有体物としてのソフトの形態はメディアは変化しているが不動の地位を得ているが、これに加えてインターネットを経由した動画配信という形の2本立てで普及し続けている。

このように提供手段としての動画が当たり前になっているにも関わらず、公共図書館で資料を配信する考え方が一般的なスタイルとして確立しているかというと、ここで言うまでもなく皆無に等しいのが現実である。
このような提供の形態についての経緯を振り返り、新しいメディアが出現した時に、図書館としてどのように提供していくかを考えることが必要となる訳だが、電子書籍(電子出版物)が売られるようになってから現在に至るまで、方向性について検討されていないところに非常に強い危機感を持っている。

動画配信を公共図書館で行わないことについては、有料でビジネスとして成立しているコンテンツを無料で配信するのは現実的ではない。しかし、有料で配信しているコンテンツを利用者の求めに応じて提供するという形を考えれば、貸出しやコピーの提供と何ら変わることはないのである。こういうところで「知る権利を保障する施設」を主張せずにどこで公共図書館の任務を主張するのだろうか。

この映像への対応を踏まえ、改めて電子書籍への対応を考えてみたい。
まず気になるのは電子書籍のインターフェイスの普及状況である。ここで、電子書籍についてもビデオの時と同様に機器も一緒に貸出することや館内での電子コンテンツ閲覧用のパソコンを設置することが考えられる。ホームページで利用申し込みをする電子図書館の動きもその一つだが、このような提供形態を見て、果たしてこのまま普及するのかと考えると、かなり疑問であろう。
ここには、図書館側から見た時の問題、「蔵書」という形の財産形成に対してお金を払うものではないという理由が介在している。お客様の意識としても同じく、「権利を借りる」という利用スタイルに違和感があること、再生機器を必要とせずに利用できる書籍というスタイルと比較した時の違和感により素直には受入できないのだと考えられる。
つまり私見では、公共図書館でのコレクションとして電子書籍、コンテンツを収集提供することには予算的にも利用スタイル的にも無理があり、特に、商業的に発行されるものについて、貸出しの発展形としての提供を行うことは図書館本来の役割からは外しても良いと考えている。

では、公共図書館ではどのような形で情報の電子化に対応していくのだろうか。
いま公共図書館の役割として考えられるのは、民間で提供した場合に利益が見込めない処であろう。すると、地域情報の電子化と保存提供が第一に挙げられるだろう。さらに言うと、電子情報にアクセスするための手段を普及すること、これは機器を提供するという意味ではなく、一時代前の「IT教育」のようなリテラシ向上のための教育についてである。
「IT教育」が成功したかというと、実際のところ疑問であり、そのような分野に予算を投じることができる可能性は低い。寧ろ目に見える成果としての電子書籍の貸出しの方が政策としては華があるので説明がしやすいだろう。しかし、それではこれまでと何ら変わらない。

私たち公共図書館の目指す姿とは何か?
私が地域資料に拘る理由はここにある。地域資料を作り出すのは図書館でも図書館員でもない。地域資料とは、地域そのものが作り出すものなのである。つまり、地域資料を生み出す地域に住むすべての人々が地域資料のクリエーターとなるのである。そして、地域の公共図書館は、その創作を支援し、多くの人々に対して提供できるようにすることが使命となる。
この使命をより効率的に遂行するために、これからの公共図書館は電子書籍と関わっていく道筋をつけていかなければならない。逆に、地域住民がクリエーターとして地域資料の電子化、地域資料コンテンツの作成に関わることができるようになれば、自ずと電子書籍は普及していくのではないだろうか。

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2012-01-26

検索術

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資料や情報へ案内する場面において如何に速く、正確に目的のものへ到達することが大切なのは言うまでもない。
この場合、公共図書館での案内では検索の技術が重要な要素として取り上げられる。「検索」には所蔵資料を調べるということが基本中の基本であり、それがあって初めてレファレンス対応で大切な「調査研究のお手伝い」ができるのである。

ここで、「検索」についていま一度見直してみると、経験不足から来ることだと思うが、目的の情報を絞り込んだり、目的の情報に到達するための時間がなかなか短縮できずに苦労している様子が伺える。このような検索の課題は昔からあったと思うが、最近はこれが殊に顕著になったように感じている。この理由として大きいのは、インターネットの検索により、誰でも簡単に検索ができるようになったことで、図書館のお客様にとって、図書館で司書が検索することが、特別な技術が必要だと感じにくくなったことだろう。

このことは図書館で何かを探している人の様子からも伺える。
例えばOPACで資料の所蔵を調べている人は、検索語を入力して結果がなかなか出ずにいらいらしたり、所蔵がありませんという画面表示を見て仕方ないなという顔をしているが、検索結果が出るまでの無機質な画面を見ながらいらいらしているのがよくわかる。レファレンスデスクで対面で資料を探している時も同じで、ただ黙って検索をしている様子を見つつ、ちょっとキー入力が五月雨タッチにでもなっていたらいらいらは極致に達する。
このような場面では、お客様の中には「自分がやったらもっと速い」という意識が生まれているのだろう。

少し違う例だが、4月~5月のデパートの売り場では新人が研修で配属されている光景を目にするが、この時期に進物などの包装を依頼した時のイライラ感と検索の待ち時間のイライラ感はよく似ている。包装待ちでイライラするのは、自分が目の前の店員よりも包装が上手にできるという確信が必要なので、検索の場合の誰でもが持つ感覚とは異なるかもしれないが、自分より技術的に劣る者に対し何かを任せることが、もどかしく感じる感覚は同じだろう。

このイライラ感を軽減するためには、どのようにすればいいのだろうか?
OPACであれば、横断歩道の歩行者用信号の如く、待ち時間があとどのくらいかわかるようなシステムであれば理想かもしれないが、技術的に困難であれば、注意書きとして「入力語によっては検索にお時間が掛かることがありますのでご了承ください」という注意書きを入れるとか、3分経過して検索結果が出なかったら中断するか係員呼び出しができるなどのフォローができるシステムにすることでイライラ感を緩和できるだろう。

対面の時は若干厄介かもしれないが、基本はOPACでの改善策と同じである。
検索の技術と言うと検索語の選択により効率良く検索することばかりを意識しがちだが、対面で検索をする場合「間の取り方」が技術以上に重要となると考えている。待ち時間を短くするのではなく、待ち時間を感じさせなくする技術が必要なのである。依頼された情報の検索をする一方で、その時は期待していなかった付加価値としての情報を提供することを含めて情報提供することで、検索だけで得る以上の満足感が得られるのである。

スピードを求めることは簡単である。しかし、スピードには限界がある。
そこで、スピードを追求することばかりに囚われないためにすべきことは何か?一定の検索に必要な時間内で得られる情報量を増やすことではないのだろうか。
検索スピードを上げる場合は人の技術、システムに依存する必要があるが、情報量を増やす場合は、パンフレット、パスファインダーなどの印刷物や館内の展示が代行してくれる。
いづれにしても、これまで求められてきたのは数量的カウントであるが、これから必要なのは一つひとつの数値を構成する要素の質なのである。
検索している間の待ち時間を如何に有効に使うのか。そんなところに図書館に人がいる価値があるのだと私は思う。

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2012-01-25

資料紹介ショー

006

今、「節分」をテーマに資料を紹介しています。
公共図書館でのおはなし会での本選び、テーマ展示などにおいて、どんな本を選ぶのか?これらの本を見ると図書館のセンスと言うか、考え方の柔軟さが読み取れます。

では、この「節分」をキーワードとしてどんな本が思い付くのでしょう?
まずは「鬼」「豆まき」といったところが定番路線です。少し脱線すると「豆しば」「大豆」「落花生」「もやし」「地獄」「閻魔」辺りが無難なところです。さらに飛躍すると「バタピー」「豆腐」「納豆」「大豆パワー」そして「メンデルの法則」「遺伝子組換え」へと続きます。これをどう一本のラインで結ぶかは図書館員の腕の見せどころですが、こんな取り留めのない連想ゲームのような資料の連鎖があることを示すところにこそ、図書館員の存在価値があるのではないでしょうか。
これを毎月「資料紹介ショー」のような形でやれば、外から講師を呼んで講演会をやるよりも余程安上がりで楽しい事業ができると思います。

Now,It's a show time!!

 

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2012-01-24

書店にて、公共図書館のこれからを憂う

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書店の棚づくりを参考にする。
NDC順を崩すという意味ではないが、本、雑誌、コミック、DVDを分けて考えず、カテゴリで考えて排架している様子は、図書館以上に図書館らしい棚だと思える。
例えば、クルマのコーナーを見ると以前はクルマに関する雑誌が置かれていたのだが、今は雑誌と本が同居している上、クルマを描いたコミックが並んでいる。お客様の興味の範囲によって情報を寄せる、つまり、NDCで集めていた資料を件名で集めたようなものだろう。

このような手法は、既に一部の図書館で見ることができるが、本格的に広がりが見られないのは何故か?
答えは簡単である。今の公共図書館の多くでは目録コントロールができない状態にあるからだ。目録業務が自らの手を離れている現状を見ると仕方ないことだが、棚に合わせたローカルNDC、ローカル件名を追加入力して、MARCとして供給される項目以外の排列を可能にすればいい話なのである。

ところが、多くの公共図書館でMARCの加工をしないのは、余りにも至れり尽くせりのデータなので、加工しなくてもそこそこの検索ができること、そして、お金を払えばメンテナンスフリーであることが大きい。メンテナンスデータを購入するとどうなるのか。例えば一つのデータに自分で件名を追加しても、メンテナンスデータを取り込むと追加したデータが消えてしまう。要するにMARCの作成だけでなく、排列そのものを丸投げするようなイメージと言っていいのかもしれない。図書館側でMARCの中身に手を触れなくても概ね希望する検索ができるのは貸出しの利便性から見れば図書館員の負担を軽減できる訳だが、レファレンスの観点からは「MARCに手を触れない→MARCの構造を掌握できない」ということが検索能力や排列能力に大きく影響を与えていることは否めない。

私は、現在のMARCの状況がクルマのミッションの進化の過程に似ていると感じている。
民間MARCはオートマチック車、自分で作成したMARC若しくは国会MARCはマニュアル車となる。後者は、作成するためにMARCの構造を理解し、対象となる資料に合わせて必要なデータを入力する必要があるが、作成したデータを検索で利用する時の私たちの自由度は民間MARCに比べて遥かに高い。それは、自分たちで目録を掌握しコントロールできることに尽きる。
このように見ると、MARCそのものを掌握できる道を選ぶ後者がより良い選択のように思えるが、前提として、目録を本務とする専門的人員の配置が必須となることは言うまでもない。しかし、今の公共図書館で、目録業務が必要だということが本当に理解されるかと言うと、私見ではかなり疑問であると言わざるを得ない。

最近では若干トーンが落ちたが、公共図書館の民営化(正確には業務委託、指定管理者制度の導入、PFIによる公共図書館の民間活力の導入だが、ここでは敢えて民営化と記しておく。)反対の動きでは、図書館の基幹業務の中に「目録」は全く含まれていないと感じている。司書の活躍の舞台としての公共図書館を考えるのであれば、まずは目録の奪還を第一に唱え、その上で、分類と排列を基本とした「情報提供」に重点を置くべきであろう。

私が見た書店の棚には、書店員の棚出しのし易さよりもお客様の探しやすさを優先した意識がある。そこに私は、冒頭に書いたように「図書館以上の図書館らしさ」を感じたのだが、このような棚を図書館でも普通に見ることができるようにするためにはどうしたらいいのだろうか。
まずは、お客様目線で物事を考えることは必須である。そして、次に必要なのは「資料目線」で考えること。これが現在の公共図書館では殆ど見られない。例えば、棚にきつきつな状態で本を入れないという原則がある。これは、取り出しやすいようにするというお客様に配慮する意識はあるが、本が傷まないようにするという観点は見当たらないのである。つまり、資料のことを充分に理解していない…これが、公共図書館が目録を手放したことによる最大の問題であると私は見ている。
とはいえ、書店員が本のことを充分に理解しているかという点では同じかもしれないが、「貸出し」と「売る」ために必要な知識とエネルギーを比べれば、公共図書館の劣勢は言わずもがななのではないだろうか。

現在、無料のMARCの導入の是非について、公共図書館の現場は大きく揺れている。前提となる専門的人員の配置のこと、資料の受入に必要な時間とレスポンスの増大を無視するのであれば、自治体財政当局にとって無料のMARCは願ってもないアイテムであろう。しかし、MARCは貸出管理のためのデータではない。もし、今の状況のまま無料のMARCを導入したらどういうことになるか。詳細はここでは書かないが、一部を除いて、多くの公共図書館が貸出しを含めて機能を停止することになるかもしれない。タダより高いものはないのである。

しかし、打開策はある。
ここで、図書館員が目録業務を基幹業務として捉えるべきは確かである。但し、MARCの作成そのものを自分たちでやったり、国会MARCを導入してカスタマイズを自分たちでやるという話ではない。そこで、民間MARCと国会MARCのどちらを選ぶという判断ではなく、基本情報を作るのは誰で、カスタマイズなどその情報に付加価値を付けるのは誰かという処で役割分担を考えなければいけない時代になっているのだと思う。コスト面だけを言いたくはないが、付加価値を付けるために最もトクなのはどのような選択をすることか?

答えは見えている。

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2012-01-23

大型絵本が見たい

029

学校での読み聞かせ活動が活発になった頃から、読み聞かせに使うための大型絵本の出版が増えてきた。広い場所で、大勢に見せるという意味では、絵が大きい絵本は有効だろう。公共図書館でも、このような形態での出版を以前から望む動きがあり、一部では出版社に問い合わせなどもしたようだが、公共図書館だけの要望では、コスト回収も難しいという判断があったのかもしれず、なかなか要望した出版は実現しなかった。
それでも、洋書にはかなり前から大型絵本は存在していたので、例えば、『はらぺこあおむし』のドイツ語版の大型絵本などを入手して読み聞かせに使った所もある。

現在出版されている読み聞かせ用の大型絵本は図書館で読み聞かせに使いたい基本的なタイトルはほぼ網羅していると思うが、一つ不満があるとすれば、単に版型を大きくしたということについてである。広い会場での読み聞かせを意識するならば、通常の絵本としての利用は想定する必要はないので、テキストを入れず、別冊の解説書をつけるとか、普通版型の絵本とセットにするとかの配慮があって良いだろう。また、大型絵本が出版されているにも関わらず、普通版型の絵本は品切れで入手できないという事例もあるだろう。

また、不満とまではいかないが、大型絵本の定義そのものが曖昧なことによる混乱も起きている。例えば岩波書店の絵本には「大型絵本」というシリーズがある。代表的なものに『かにむかし』『王さまと九人のきょうだい』があるが、特別大きいという訳ではなく、普通の絵本より少し大きめというぐらいである。公共図書館のOPAC(検索)で読み聞かせに使うための大型絵本を検索しようと、検索キーに「大型絵本」と入力すると、想定した大型絵本以外の岩波書店の大型絵本も一緒に出てくるようなことである。また、データ上では大きさがわからずに、普通サイズの本と勘違いして予約を入れてしまうという話もよく聞く。予約を受けた図書館では、本当に大型絵本が必要かどうかわからずに用意をしておくが、貸出し手続きの時に大きさを見てびっくりするというのは、第三者から見ればただの笑い話に過ぎない。
図書館によっては、こうした行き違いを防ぐために、予約が入った直後に確認の電話を入れる対応をしていると言うが、そういう対応をしないで素直に用意してしまう図書館では、こうした確認をすることにより逆に「大きなお世話」と言われトラブルの原因になることを恐れてということがあると聞いたことがある。このようなトラブルも予約入力画面やヘルプページに、「ご予約の内容についてお問い合わせをする場合がございますのであらかじめご承知置きください。」との文言を書いておくだけでもトラブル回避にはなるだろう。
以前、読み聞かせ用の絵本を区別するために、検索キーに「読み聞かせ大型絵本」と入力したことがあるが、このようなちょっとした文言を入れたりデータを加工する手間を惜しまなければ、少なくとも行き違いによるトラブルは回避できるに違いない。

OPACによるお客様との話の行き違いは他にもある。
「ハリーポッター」のシリーズは様々な言語に翻訳され、多言語サービスとして購入している図書館は多いだろう。数ヶ国語を揃えている図書館は稀かもしれないが、日本語訳の他に英語版を購入しているところで、OPAC上で、日本語で入力すると英語版も表示されるようにしている図書館では、間違って英語版に予約を入れる人がいると聞く。申し込み通り英語版を確保して連絡すると、獲りに見えた時に「自分の予約したのはこれではなく日本語の版だ。」と言われるケースがある。お客様の勘違いだということを理解してくれれば良いのだが、「日本語で検索できたのだから日本語の本だと思って当然だ。」とか、「用意できたと連絡が来たのだからすぐに出せ。」とかキレるお客様もいると聞く。このような場合、英語なら日本語での検索ができなければ良い事例だが、もっと少数言語の場合は単純にはいかない。結局、OPACは飽くまで所蔵しているかいないかの確認の手段としては有効だが、予約についてはまだまだ人によるフォローが必要な部分なのかもしれない。

OPACから大型絵本に予約が入ったとき…まずは確認の連絡を入れることだが、連絡がつかない場合は大型、普通版型の両方を用意しておき、渡す時に「一応確認のため普通の大きさもご用意しておきましたが…」と応対することによってトラブルを回避すべきだろう。
このような図書館の提供の対応についてあれこれ考えていたら、こんな夢を見た。
図書館では、本のマスターデータを利用する権利を出版社から買っている。ある絵本の図書館での利用権には「拡大縮小権」「投影権」「5ヶ国語出力権」という権利が付加されている。この権利により、図書館はお客様に英語のテキストで出力した本をペーパーバック版で貸出したり、1mの大型絵本を出力して読み聞かせに使ったりしている。ユーザー側にこのような権利付与することは問題が多いかもしれないが、オンデマンド出版の受取窓口としての公共図書館の可能性という意味で選択肢が多くなることは考える必要があるのだろう。

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2012-01-22

『はじめてのおつかい』筒井頼子さく 林明子え

自分の経験と照らすと、ちょっと違うんですよね。
近所の店は、母と何度も一緒に買い物に行ったことがある店ばかりで、一応顔見知り。それでも、初めて一人で買い物に行った時はたいへんでした。
電話で買いに行くものを事前にお願いしてあって(在庫が無いこともあるので、判断できずに迷うことがないようにということがあったと思います。)お金を渡して品物を受け取るというお膳立てができた状態で買い物に行ったものです。要するにストーリーが出来ていて買い物に行くのが普通でしたので、このおはなしの中で買い物に行く姿は冒険という印象を受けました。だからと言って、児童虐待みたいな見方をしてしまうのは賛同できません。

別な見方をするならば、第一印象として抱いた「はじめてのぼうけん」のおはなしであり、一人で出かけることの危険についてを教えるために必要なおはなしと考えるべきなのかもしれません。そして、ここで最も大切なのは、危険を乗り越えて帰ってきたら、そこには家族のぬくもりがあるということ。
良い本か悪い本かという判断よりも、このおはなしを切欠にどのような親子の絆が生まれるのかを考えてみると良いのだろうと思います。そして「いつか一人でお買い物に行くかもしれないけど、今日は一緒に行こうね。」というために。

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2012-01-21

これからのレファレンス

001

博物館の学芸員がそれぞれの専門分野を持って日々研究しているのに対して、図書館の司書は何をやっているのかと思う。
ある人が、司書も研究する専門分野が必要だと言っていたことを思い出すのだが、なるほど、専門分野を持つという意味では以前から考え方として存在していたのだろう。

今、レファレンスというと質問に対し答える形で資料を提示するサービスであり、どの本にどのような情報が載っているかという点での研究は必須であり、これを基にしてレファレンスというサービスが成り立っているのかもしれない。しかし、質問をする人の意識として、調べたいことが載っている資料を案内することで本当に満足が得られているのだろうか、という疑問もある。
答えを教えるサービスではないというのは確かであるが、答えを知る専門家や機関を紹介することを含めて、情報を提供することを考えれば、司書そのものが専門分野を持ってその人と質問者を結び付けることは、「答えを教える」のとは異なると考えていいのだろう。

そしてもう一つ。
何でも答えますというレファレンスというサービスを改めて考える必要性を感じる。
今のレファレンスの現場では、「何でも答える」と言いつつ、何でも答えられていない、寧ろ質問者が満足する答えをどれだけ出しているのかを考えると、かなり中途半端感がある。
なので、今後は何でも答えるというスタンスを止め、このことについてはしっかり答えられますという図書館としての専門分野を持つべきだと考えている。
公共図書館の場合の専門分野で、最も期待するところはやはり地域情報だろう。まず、このような専門分野の看板を掲げ、答えるための専門知識を持った司書を配置するのである。
これまでの考え方から言うと、こういう質問が多いからこの質問にはきちんと答えられるように資料の整備をしたり、パスファインダーを作っておこうといった対応を考えるのだろう。しかしこれからは、「質問が多いから」ではなく、こういうことには完璧に答えられるという体制があるからこそ質問が来るというように導くことが大切なのだ。
この専門分野というのは、特別な難しい研究主題でなくても、例えば、本のソムリエのように気分に合わせた資料の提供を心理学専門の司書がコーディネートします。みたいな形でも良い。

要するに、何でもお答えしますではなく、確実にお答えしますという形のレファレンスサービスを提供することが必要なのだろう。

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2012-01-20

昔話の排列から目録業務について思うこと

003

昔話の絵本を探すお客様に出くわす度に、排列についてもっと工夫がほしいと考えてしまう。
昔話の場合、タイトルで分けても、再話、画家で分けても、どれが一番使いやすいという判断は難しい。また、昔話だけを別置するにしても、どこまで昔話として線引きするのか、その判断は難しいし、同じ話が元になっていたとしても、タイトルが全く異なる場合、例えば『しあわせの石のスープ』『せかいいち おいしいスープ』」などもある。
一番探しやすいのは、余り別置などせずに、他の絵本と同じく排列することだが、ここで思うのは、タイトルや画家名といったこれまでのセオリー通りに請求記号を与えるのではなく、例えば『ももたろう』なら基となる昔話から派生するものに対し「ももたろう」という共通件名を与えてみてはどうだろうということである。

このような共通標目を与えるメリットは大きい。有名な昔話だけでも、この標目によってカテゴライズできれば、案内も容易になるし、何より同じ昔話を比較検討できる。
最近では、公共図書館の現場で目録を採るということが殆ど見られなくなった。どんなに必要性を感じても、データを追加修正するのではなく、逆に、下手にMARCを修正しても供給されるMARCそのものに訂正があった場合に、折角自分たちで修正したデータが上書きされて消えてしまうという理由から、MARCをいじるのはタブーとする見方すら存在するのである。
目録(MARCの作成)は、検索の手段に留まるものではなく、「資料を知る」という意味で、図書館のあらゆるサービスの基礎となる。このような目的を考えるならば、日常業務の中で目録を採ることは必須なのだが、現状を見る限りでは、MARCは検索の手段若しくは発注ツールぐらいにしか考えていないようにも見受けられる。

ここ最近、無料のMARCを導入することの是非が取り沙汰されているが、今の公共図書館の現状で無料のMARCを導入したら、図書館の資料提供の機能そのものが大きく後退するに違いない。簡単に言ってしまえば無料のMARCは達人仕様で、基本的なデータのみ入力してあるので必要なデータを追加してください。カスタマイズ次第ではものすごくサービスが向上しますよ。というものだと解釈している。これまで、民間MARCが普及してきた理由として、こうしたカスタマイズの部分を含めた提供が行われていたことが大きい。

要するにこれは単純に比較し、無料だから、データが濃いから、物流と連動しているからといった判断によるものではなく、サービスを提供する私たちの情報リテラシを高めるために必要な選択肢として考えるべきなのだろう。
ある意味、人と資料にお金を掛けることができ、その上で目録を基幹業務と位置付けることができるのであれば、無料のMARCは魅力的だ。しかし、人と資料にお金を掛けないというならば、人をサポートするための詳細なMARCの供給、所蔵することができない出版物の情報を自館のデータベースで検索でき、情報提供できる態勢を構築するためのMARC費用は必須となる。
そのどちらが、結果的にコストパフォーマンスが高いのかの選択が求められている。

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2012-01-19

本を長生きさせるために その2

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急に雨が降ってきたとき、傘が無いため駐車場の車まで走って行く光景はよく見る。このような時、図書館で駐車場用まで行くための傘を用意できれば良いのだが、傘一つにしても、そのまま持ち帰る人がいるリスクが大きいのでなかなか置くことができない現実がある。
結果的に傘を持たないお客様は、本を雨除け代わりに頭の上にかざして走っている。

また、本を枕代わりにするという話もよく聞く。
なるほど程良い高さが気持ち良いのかもしれないが、本はドラえもんのひみつ道具でも何でもない。また、図書館としても『がちょうのペチューニア』を例に本の活用法の一つとして枕にして寝ると頭が良くなるという紹介をしている訳でもない。返ってきた本が妙なヨレ方をしている、如何にも枕に使ったのだなというのがわかる本があると残念な気分になる。それでも、枕ぐらいならマシな方で、押し花を作るのに使う人(なんと上に座ることもあるそうだ)、へそくりを隠す人、鼻毛を抜きながら読んでその成果物を整列させて並べる人、実に様々である。

驚いたのは、買ったばかりで初めて借りられた本の表紙に丸い跡が付いて返ってきた時である。聞くと、開口一番「最初からこうなっていましたけど。」と居直る様子。どうやらこれは鍋敷き代わりに使ったらしく、丸い跡は表面のフィルムコートが溶けたものだった。「お客様が一番最初にご利用になられたのですが、最初からですか。」とお尋ねしても、こういう人は手を替え品を替え難癖をつける。
「新しい本で私が最初に借りたという証拠でもあるの?」
「料理の本をキッチンで使うのは当たり前だから汚れて当然じゃない。」
「私の税金で買った本でしょ。どう使おうと勝手じゃない。」

「私、悪くないもん。」という意識がありありと表現される瞬間である。このような場合、こちらから新しい本を持ってきてほしいと言うと、今度は、役所の苦情を言うとか、教育委員会に言うとか、クレームはさらに自分に非が無いという尾ひれが付いて、最後には謝罪しろとまで言われることすらある。こうなると、理解を求めるとか、規則だからと正論を持ち出しても無駄で、次の手段はひと言、「それでは、申し訳ございませんが、警察に被害届を出させていただきますので、ご了承ください。」と伝える、すると…。

ここまで大袈裟な話はごく稀だが、図書館の利用に関しての自己中心的な考え方は以前からよく聞く。殊に「貸出し」をしている本に住民の共有財産だから大切にしようという意思は見られない。啓蒙の意味で「かわいそうな本」と題して壊れた本を展示していることがあるが、個人的見解では、公共物の扱い方の意識が薄い現代において、これは逆効果で、まさに割れ窓理論の事例の一つになってしまう。逆に、丁寧に使っていたにも関わらずページを切ってしまい、正直に申し出をしたら弁償してくださいと言われた時の馬鹿馬鹿しさは察するに余りある。

この問題は、汚れて当然とか、どうせリサイクルするんでしょ、という消費財的な考え方が人々の意識の中にあるのは何故かという根本的なところから変えていかなければ解決できないのだろう、と思うのだが、その第一歩として、私たちが実は図書館の資料を知らず知らずのうちに消費財としてしか見ていないのではないかというところを改めなければいけないのだろうと感じるこのごろである。

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2012-01-18

本を長生きさせるために

010

動物病院から手紙が届いた。
犬の去勢手術を薦める旨の内容で、手紙によれば、去勢手術をすると寿命が数年伸びるとの統計が出ているとのことだった。

1日でもいいから長生きしてほしいと思う気持ちは飼い主ならば当然のことだが、公共図書館で仕事をする私たちにとって、大切な資料が1日でも長持ちしてほしい、いや「長生き」してほしいと考えるのも必要な意識ではないかと思っている。

本を長生きさせるためには、いいかげん使われてから補強をするよりも、状態の良い時に予め補強するなどの予防の方が効果がある。しかし、まだ壊れてもいないまっさらな本に手を入れることへのためらいや新しい本を汚したという「手を加える=悪」のような日本人好みの勧善懲悪主義によって、なかなか補強などできないものだ。

児童サービスでは昔から言われていることだが、絵本に前後から平均的に開き癖をつけておくと良いという話がある。なるほど、買って一番初めに開き癖をバランス良くつけることによって本の歪みを減らし一部分に無理な力が掛からないようにすることは重要なことだ。これは、児童書に限ったことではない。小説などは、多分途中で読むのをやめてしまうことが影響しているのだろうが、前の方ばかり開く回数が多いので開き癖がついている前の方が妙にしなやかだったりする。そして本を棚に普通に置いたものを上から見ると、長方形というよりも平行四辺形になっている。人間の身体でいえば、背骨が曲がっているようなもので、本はさぞかし辛いだろうと思う。

ただ、全ての本に開き癖をつける必要がある訳ではない。頻繁に利用されそうな資料や長期間保存する必要がある本などに当たりをつければいい。つまり本一冊ごとに、本のことを把握すること、つまり健康管理をすることだろう。確かに手間はかかる。しかし、このことによって資料に触れ、資料を知ることが、結果的には単に本の寿命を延ばすことではなく、資料案内などの図書館の根幹ともいえるサービスの提供につながっているのだと忘れてはならない。
さらにいえば…司書という資格の地位向上を考えるのなら、こういう細かなところを常に意識しなければ、恐らく自殺行為でしょう。

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2012-01-17

ブックスタート以前

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現在の公共図書館の利用につなげるための施策として、ブックスタート、おはなし会、ブックトーク、映画会など、様々な事業が行われている。また、資料についても赤ちゃんから高齢者まで、或いはビジネス利用などのテーマにより細かく収集が行われている。

このような現状自体は否定するものではなく、寧ろ一人ひとりの住民に合わせた資料提供という意味では、さらにきめ細かな展開を希望する処だ。

しかし、課題も多い。
資料費が減っているということも大きいが、ここでは資料費の問題は一旦隅に置いておき、事業実施の構造的な問題の部分に触れてみたい。例えば、おはなし会は、それ単体では事業としての型は確立しているが、他の事業とのつながりが感じられないまま行われていると感じる処がある。それは、おはなし会を卒業した年齢の子どもたちが図書館から離れていく処から感じていることなのだが、図書館周辺では、これを読書離れの現象としか捉えていないように見える。しかし、子どもから大人へという発達段階に合わせて事業どうしのつながりがあるのかと言えば、「高学年になったら図書館に来ないから」のような形で事業の実施が分断されているケースが多く見受けられる。

これからの公共図書館の課題は、発達に合わせた形での読書環境の整備であり、その結果として図書館の将来の利用習慣につなげること。しいては、大人になって自分の子どもに対して図書館利用の習慣をつけるようにすることだと考えている。

今は、赤ちゃんからブックスタートが行われ、本に親しむ環境は整っているかのように見える。しかし、子どもの本へのアプローチはもっと以前から行わなければならない。子どもが生まれる前からの本に触れる機会、これは胎教の範疇かもしれないが、図書館としては、ブックスタートのこと、おはなし会のこと、利用カードを作れることなどを周知する意味も含めて、この時期に必要な資料を紹介したり、読み聞かせをするような事業が必要なのだろう。

公共図書館の利用は、子どもが生まれる前から始まり、生まれて成長して…のサイクルが繰り返される。このサイクルを作り出すことが貸出し以上に大切な、恐らく公共図書館の存続に関わることまで発展するかもしれない。
また、図書館のサービスを図書館単独で完結させる時代は終わったのだろう。これからは、福祉の中の図書館サービスのような位置付けの中で世代に合わせた資料(情報)提供を考えるべきだろう。


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